鏡の国のバカ

しったことか

使うあてのないネタ

高度な情報化がこのまま進めば、文明社会においてリバタリアニズムは統治リバタリアニズムとしてしか存在できなくなるだろう、という指摘は既に誰かによってなされているだろうか。この食い合わせの悪い理論が提供するのは、エリート層のサボタージュのネタくらいのものだろう。残念ながら。思えばポストモダン系の論者は、一貫していないように見えるあれやこれやをひとまとめにすれば、謎のインテグリティが発生するという類の議論を好むようであった。これも一種の、負荷を投げ捨てたいという欲望の発露であろう。そしておそらくそれは、情報化の発展と切っても切れない。情報化とポストモダン新自由主義といった現代の思潮は、実は作用と反作用の関係にあるのではなかろうか。市場を重視しがちなそれらの思潮が、市場が推し進める情報化の反作用によって引き起こされるとしたら、なかなかの皮肉であると言えよう。

チェスタトン「新ナポレオン奇譚」を読む

滑稽だとさみなされているものの中に神聖さを見ることこそが

王権に対する真の叛逆である、というのはわからないでもない。

滑稽さは往々にして作為でありうるが

真摯な感受は作為でできるものではない。お芝居ではないのだから。

それを笑いのめし、諧謔化する精神への叛逆から

時代性の支柱になりうる作品が生じるのだとすれば

触れるものみなバターナイフで切りつけるようなこの時代に

聖化されるものはあるのか。あるとすればそれは何か。

若さはもはや聖なるものではない。それはなぜだろうか。

金にこだわる

「金にこだわる」とは何だろうか。

「金にこだわる」ことと「酒にこだわる」「女にこだわる」「車にこだわる」こととの差異はなんであろうか。

金そのものを求めるとき、そこに実需は発生しない。

現代の金融は、実需がないことを利用して、実体経済からさらに需要を巻き上げる役割を果たしているように思える。

それは何のためなのか。

まったく

「彼女の顔は紅葉のように赤くなった」

「紅葉はそんな色はしていない!」

…ああはい

PCしぐさ、または形式の過剰

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる」と言っただけで叩かれたり窘められたり

 成員の構成を考えずに発言した咎はあるにせよ個人的な幸福の描写のひとつに随分と過剰な

反応をするものだと思う。典型的な左派でなければ戦争に対する危惧を抱いてはならないのだ

ろうか。「クーラーの効いた部屋でコンビニ弁当をかき込む幸せ」と発言したら、反省エネの原

発推進派、しかもインスタントな消費社会を賞揚している!資本主義の豚は死すべし!などと

言われかねない。まさにクソリプ。いや、さすがに言われないだろうとは思うけど。

Oh…

ここから内在と超越、具体と抽象についての話になだれ込んでもいいのだが、吟味すべきことが多すぎて帰着点が見えない。