特にありません

そんなの知らないよ

「けいおん」は日常と言えるか?

「文化の深淵としての宗教」紹介ページより

宗教的体験(宗教的作用)を、こうした文化という日常的なものの虚無性の体験の根底に開く「無の深淵」として捉える

読んでいないので実際どんな主張をしているのか不明だが、日常にこそ祈りが潜んでいる、という感覚はわかるような気がする。「喧騒の中の静寂」というやつだ。

集団的意思決定の困難さとか

境界の確定の難しさについて書いたが、これはなにも脳内委員会で予め幅のある結論を出しておくタイプの人間に限った話ではなく、矮小化するのはフェアでないわな。実際的な結論を出そうと思えば、誰でもぶち当たる壁だ。宗教票を多く集めたブッシュにしても、プロライフ派の主張をそのまま実行したりはしなかったわけで。
民主主義における集団での意思決定というのは、裁判員の中に容疑者と被害者が混じって議論するようなもので、そう簡単にはまとまりゃしない。その中で結論なり判決なり調停なりを導き出すには、落とし所を探った上で多数決により決めるしか、現実的には、ない。
ひとつの事実があるとして、それをどう判断するかは社会の置かれた状況によって違う。そこでは当然ながら「美意識とか伝統とか大多数の情緒的了解とか(惰性とか)」が大きく関わってくるのだ。
そのようにしてまとめられた、様々な要素の集合体を、その社会のとりあえずの「正義」とせねばならんのだが、それを余りに厳格に適用しすぎると不測の事態にも対応できないし、状況は常に流動していくものだ。現状に合せるために頻繁に改正せねばならないし、様々な事態に適合させるために下らない法律の山ができてしまう。
だから個人の裁量の余地を残すべきなのだ、と私などは主張する。自律するのがめんどくさい、等と言うのは、自由などいらん、と言っているに等しいのではないかと思う。
裁量の余地を残すには、人間への信頼が要る。私はその程度には人間を信じているが、議論やお互いへのコミットもなしに雑多な声を集めて工学的処理を施した結果を法律とするような、一般意思2.0的に導き出した結論に期待を抱くほどには、信じてはいない。
ただし、裁量を認めるには、もうひとつ必要なものがあって、それは一定の共通認識だ。「美意識とか伝統とか情緒的了解とか(あとは論理のスタイルとか)」が、社会の構成員の大多数に、多かれ少なかれそれなりに受け入れられている、という前提が必須なのである。とりあえず今の日本ではまだ、どうにか確保されているものと思うが、移民が大量に入ってきたりした日には、どうなるかわからない。
そんな日には、相撲のスタイルも今とは変わっていることだろう。そこにはドメスティックでローカルでトラディショナルな、「美意識とか伝統とか情緒的了解」の共有が必要な楽しみは、もはやないのかもしれない。
最後にいちおう言っておくのだが、私は小田嶋さんでもサンデル教授でもないので、そこのところはよろしくお願いしたい。相撲に関しては八百長なんて度が過ぎなけりゃどうでもええんじゃ面白けりゃ問題ない朝青龍みたいな属人的な暴れん坊を挑発されて殴った程度で辞めさせるような度量の狭い伝統はいらん伝統で切って伝統で切られ相撲界も色々大変だな、とか思う。

「予定不調和」を読む

先端科学にまつわる倫理のお話。イントロだけでできたような本だが、一般人にそれ以上の知識が必要かといえば、疑問ではある。
支配とか統制の形が変わってきた、と言われて久しいが、相変わらず対人関係による、直接的な干渉にのみ反応しやすい世の中ってのはなんだろうかね、と思ったりもする。
ここで問題にされているようなことは、日本ではほとんど表面立って取り上げられることはない。もしかしたら自然観の違いによって、そもそも日本では某かの抑制がかかっているがゆえなのかもしれない。

オン・ザ・なんとか

われわれの中にある「相撲的なるもの」
このひとは中間派だなあ。中間派が意見を通すには慎重さと文才が必要だってことがよくわかる。境界線上で綱渡りしてるようなものだから、どちらにズレても攻撃をくらう。境界を設定するにあたって、主に美意識とか伝統とか大多数の情緒的了解とか(惰性とか)を根拠にせねばならんのも難しいところだ。
下に挙げたサンデルは、結局境界の確定にはほとんど言及していない。あまりにも考慮すべきファクターが多すぎるせいなのだろうし、またサンデル個人で決めるべきものでもないからだろう。依って立つ基盤からして、そうならざるを得ないところがある。
中間派ってのは、そういう意味でわりと民主主義的な存在だ。それが強さであり、思想の強度のなさでもあるだろう。
しかし1つのルールに縛られた世界では実現できないものが「あわい」にはある、ことは確かだと思う。

「完全な人間を目指さなくてもよい理由」を読む

サンデルも文句をつけたという、いわくつきの邦題。原著タイトルは"The Case Against Perfection"である。生命倫理に関する本だ。

「生の被贈与性」いわば“等しく不確定であるという公正性”を受け入れろ、と。
「この世」というゲームに参加したからには、できれば「(天与の)才能」という配られたカードの中で「努力」するべきだ、というのが本書の主張である。
しかし「私は主体的に参加したわけではない」という主張の前には無力なのではないか、という疑問は拭えない。
もちろん「治療」は例外とされているわけだが、どこまでを「治療」とするのかは議論の余地がありすぎる。
治療されずとも楽しんで人生を送れるような、あまり苛烈でない、緩やかでなだらかな社会を作っていく、というスタンスはひとつの解であろう。
実際サンデルもそのような主張をしているようである。
それでも無理筋と思われる「治療」を主張する人には「降りてもらってかまわない、私たちはこのゲームを楽しんでいる」と言わねばならんのだろうか。
私も「生の被贈与性」という概念には一定の共感を覚えるのだが、これだけで万人を説き伏せるのは難しかろう、と思う。残念なことだが。

「親が愛の両側面の釣り合いを保つことは難しくなっている。変容の愛なき受容の愛は過保護へと横滑りし、果ては育児放棄にまで至る。受容の愛なき変容の愛は過干渉へと、果ては拒絶にまで至る」メイは、これらの衝動の競合は、現代科学にも見出されると言う。現代科学もまたわれわれを、所与の世界を探求し鑑賞するような見守りに与らせるとともに、世界を変容し完全化するような形取りにも与らせるのである。

むかしフクヤマの「人間の終わり」を読んだ後、これとほぼ同じ感想を書いた気がする。サンデル教授は基本的に常識的なことしか言わないからなあ。アリストテレスを下敷きにした「卓越」の称揚が特徴的なところ。

作家主義と作品主義、というふたつの立場がある。
誰かがなした犯罪の原因を、主に環境から見る考え方と、個人の性質に帰する考え方がある。

個人をすべての大元と考える立場から見れば、作家主義と性質主義(?)は同様のスタンスである。
周辺状況をなるたけ考慮しないのをよしとする立場から見れば、作品主義と性質主義は同様のスタンスである。
前者の立場を個人主義と言うのだとすれば、後者のそれは何なのだろうか。孤立主義?