鏡の国のバカ

しったことか

「完全な人間を目指さなくてもよい理由」を読む

サンデルも文句をつけたという、いわくつきの邦題。原著タイトルは"The Case Against Perfection"である。生命倫理に関する本だ。

「生の被贈与性」いわば“等しく不確定であるという公正性”を受け入れろ、と。
「この世」というゲームに参加したからには、できれば「(天与の)才能」という配られたカードの中で「努力」するべきだ、というのが本書の主張である。
しかし「私は主体的に参加したわけではない」という主張の前には無力なのではないか、という疑問は拭えない。
もちろん「治療」は例外とされているわけだが、どこまでを「治療」とするのかは議論の余地がありすぎる。
治療されずとも楽しんで人生を送れるような、あまり苛烈でない、緩やかでなだらかな社会を作っていく、というスタンスはひとつの解であろう。
実際サンデルもそのような主張をしているようである。
それでも無理筋と思われる「治療」を主張する人には「降りてもらってかまわない、私たちはこのゲームを楽しんでいる」と言わねばならんのだろうか。
私も「生の被贈与性」という概念には一定の共感を覚えるのだが、これだけで万人を説き伏せるのは難しかろう、と思う。残念なことだが。

「親が愛の両側面の釣り合いを保つことは難しくなっている。変容の愛なき受容の愛は過保護へと横滑りし、果ては育児放棄にまで至る。受容の愛なき変容の愛は過干渉へと、果ては拒絶にまで至る」メイは、これらの衝動の競合は、現代科学にも見出されると言う。現代科学もまたわれわれを、所与の世界を探求し鑑賞するような見守りに与らせるとともに、世界を変容し完全化するような形取りにも与らせるのである。

むかしフクヤマの「人間の終わり」を読んだ後、これとほぼ同じ感想を書いた気がする。サンデル教授は基本的に常識的なことしか言わないからなあ。アリストテレスを下敷きにした「卓越」の称揚が特徴的なところ。