鏡の国のバカ

しったことか

変えべきものについて、それを変えるだけの知恵を
変えるべきでないものについて、それを受けいれるだけの冷静さを
そして、両者を分ける勇気を、我に与えたまえ。


そんな心境

「人が人を裁くということ」を読んだ

一に裁判制度の基本理念について、二に冤罪の起こる仕組みについて、三に自由意志の問題について、の三章仕立てだったが、私が主に興味を持ったのは一章だ。
裁判の理念は国によって違う。多民族多文化が前提で経験主義に則ったアメリカやイギリスでは、様々な意見を主張する人々の間での利害の調停を主眼にしている。対して大陸・・というか主にフランスでは、国民の同一性を前提とした普遍主義に則り、不偏不党の立場からその社会における「正義」により断を下すのをよしとする。らしい。日本はどうかといえば・・と著者の主張を続けると全部説明することになってしまうので割愛する。
驚いたのは、米英であれフランスであれ、判決を下す際に判決理由を示さないという事実だ。米英では陪審員が法規定を無視する自由のため、フランスでは陪審員=人民の判断は無条件に正しい故に、説明する必要がないから、判決の理由は示されないそうなのである。
私が意外だったのは、判決において、知性よりも意思が重視されているように、主意主義を重んじているように見えるからだ。理由を言葉で示せば、それはそれ自体が知性による裁きを受けるだろう。理由を示さないのは、それを回避するためとしか思えないのである。
日本では判決理由はいつも示される。元々職業裁判官のみで裁いていたのだから、その判決を人民が監査するためには理由の開示は当然必要だったのだが、しかし結果として、法理論に基づいた主知主義的な側面が強くなっていることは確かであろう。米英仏と日本、どちらがより精緻な判決が下せるかで考えれば、主知主義的な日本のやり方のほうに軍配が上がのではないか。
日本の裁判では、三人の裁判官で下す判決における判決の全員一致率が95%超だそうである。つまり職業裁判官に裁かれる限り、少なくとも裁判官の違いによる判決の差異は最小限に留められる。元になる原理の正否はともかく、公正ではあるだろう。現在においても諸外国の裁判員制度よりは裁判官の力が強く、また理由も示されることから、いまだ主知主義的な要素を色濃く引きずっていると見ていい。
精緻さでは日本に軍配が上がるかもしれないが、主知主義にも弱点はある。硬直しがちなところだ。社会通念は常に更新されていくものであり、浮世離れした(と一般に言われている)職業裁判官に、社会通念の更新を委ねると、甚だぎこちないものになるのではないかと予想される。
終わりなき日常・・とか言うと誤解されるが、もし社会が静的であり、大した変化が起こらないのであれば、主知主義的なやり方のほうが有効なのかもしれない。まあガス抜きとかそういう要素は置いておくとして。動的であるならば、主意主義のほうが有効である可能性が高い。日本人は変化を望んでいるのか、そしてそれはどういう方向なのか。万世一系の日本は日常に固執するのか、しないのか。慌てない慌てないと世の中喧しいが、それは主知主義によるものなのか、それとも日常への愛着のためなのか。適当な締めだなオイ。あまり社会の審判を受けてない書物に立脚して語る場合、前提が完全に否定される場合があるので困るんですよね。著者は弁護側の人なのだろう、死刑とか冤罪とかへのハードルを高くするためにやや牽強付会な部分が見うけられたが、日本の裁判官や検察に対する眼差しはさほどきついものではない。諸外国の事例もよく研究している人のようだし、持論はあるがそれなりにフェアな物の見方をする人だと私は判断いたしました。かしこ。

我ながら胡散臭さがハンパない

「大丈夫だ、問題ない」と「ありのまま今起こったことを話すぜ!」の違いは、予想できたかどうか。「あたってる」と「あててんのよ」の違いは、故意かどうか。「あたってる」のだから許されるのは平時の場合。
変革の時には予想できた「あたってる」は人為と見なされやすい。変革に都合がいいから。だからあの季節に日和見は叩かれた。件の革命家の系譜に連なる人々は、「予想できた」ことを盾に、日常を揺るがそうとする。人為を個人に限定すれば、英雄の出現は不可避である。有名性なければ人為もなく、革命は日常に帰す。おわり。

「文化の深淵としての宗教」完読

宗教を媒介にした近代哲学のガイドのような本でありました。
色々な哲学者や神学者が出てくるのだが、人によって宗教に求めるものはバラバラ、というか両極端だなあ、と思った。
内容や主張が多岐に渡るため、下手に引用するのも憚られるので、ひとつだけにしておく。

「神は人間が究極的に関わるものを表す名称である。このことは、まず神と呼ばれる存在があり、次に人間がこの神に対して究極的に関わるべきであるとの要求を意味しない。それは、何ごとでも人がそれに究極的に関わるならば、それがその人にとって神となることを意味し、また逆に、人間は彼にとって神であるものについてのみ、究極的に関わりうることを意味する」(パウル・ティリッヒ

教科書的と言うほど網羅的・系譜的でなく、論争的と言うには作者の意見がなく、思索者の紹介と言うには掘り下げが足りないという按配で、いささか読後の据わりが悪い。とはいえ勉強になった。

「理性の限界」を読む

「アローの不可能性定理」「ゲーデル不完全性定理」「二重スリット実験」
これらの言葉にピンとこない人向けの本。わかりやすい。
個人的には精妙精緻な論理的事実(そのもの)にはあまり興味がないので、民意を完全に政治に反映するのは不可能であるとか、この世の命題すべての真偽を明らかにするのは不可能であるとか言われても、へぇそうですか、くらいのもの。できない、という証明だしなあ。タイムスリップは不可能である、と言われて胸躍る人間がいるのだろうか。
論証したがる人にとって、何かの問題に取り組んでいる時に、この問題は解けないのかもしれない、という思いが胸をよぎることは、士気の面でマイナスであろうし、ショッキングな話であることは理解できるが、論証主義過激派でない私にとっては割とどうでもいい話だ。そんな証明があろうがなかろうが、今のところ世の中には整理のつかないことで溢れているのだし。すべての問題を解き明かしてほしいとは思わないが、しないこととできないことは違うのでありまして。
二重スリット実験のわけのわからなさには惹かれまくる。わけのわからないものってのは、論証主義者であろうが私のようないい加減な人間であろうが、好奇心のあるすべての人間をひきつける。そこがいい。その好奇心がシュレディンガーの猫を殺してしまうことになるかもしれないが、好奇心がなければそもそもブラックボックスに魅力を感じることもないのである。もしかしたら、箱が開けられるのは不安の為かもしれないが。

このごろ世間にはやるもの

リビアの動乱に対する日本のメディアの反応が鈍い、との発言をネット上でよく目にする。
まぁ単に経済的利害に乏しいとか、地理的に遠いとか日本ができることがないから、とか理由はいろいろ考えられるが
隣の他人に対する興味もない人間に、普段ニュースで見かけることも殆どないリビアに対する興味がわくのか、という疑問はある。無縁化ってそういうことじゃないんだろうか。
NHKの広報じゃないが「つながっている命が消えていく」という感覚をリビアにまで届かせるほど、今の多くの日本人は「つながり」の意識を持っていないのだろう。
サンデルの正義論が流行ったりするのは、ちょいとした揺り戻しだろう。ソーシャルメディアの影響もあるかもしれない。文字での対話は対面でのそれよりロジックが必要になるものだから。昔のように「縁」=「正義」とはいかない。かといって「無縁」=「正義」もうまくない、じゃあ何だ、ってことで、調停者っぽいサンデルが読まれているのだと思う。

昨日のサンデルが出てたTV番組を見て思ったこと。
まず、エンタメの場で哲学の議論をするのは無謀だということ。
たけしが一度ジョーカー的な役割を引き受けようとしたが、サンデルの「本気で言ってるんですか?」の一言で終わってしまった。サンデルも議論「ごっこ」だと割り切っていたのかもしれない。
しかし、悪い意味で琴線に触れる発言だった、という可能性も残る。
道義的に、サンデル教授に発するべきでない質問というのもあるだろう。
有名性は、意見を発する当事者としても、質問を発する相手にも、少しばかりのバイアスをかけてしまうのではないか、これがもう一つの感想。
正義とは遠くにありて思う、悲しき歌なのかもしれない。ナンチャッテ