本当に著者の人生がときめいたな、そういえば。
私のことではない。それはともかく。
わざわざ復活しておいて何だがとりとめもないことを書く。
トレードオフの受容についてだ。
医療におけるトレードオフの存在を考えたくない医療者はたくさんいるだろう。
気持ちはわかる。今ここにある医療が、トレードオフの結果だと見做すことは
その医療に対する没入を妨げる効果があるだろうから。もちろん人によるけども。
それは相対する医療の享受者に対しても不利益をもたらすだろう。
ゆえにトレードオフの考量は外部に委託したいという気持ちはそう不当でもない。
ここで間接民主制における代表性について考える。
民主主義の代表者に何を期待するか。
自分の主義主張の代弁者を求めるのか。
自分では考えないこと、考えたくないことを委託したいのか。
後者はエリート主義とそんなに距離がない。支配される特権をだ!というやつだろう。
全体を見渡して考量することを遍く人々に求めるのは酷だ!という主張の産物である。
たしかに、遍く人々がトロッコ問題について考えるべきだ!という主張には
なにか非倫理的なものがある。自分が直面していない惨禍について想像を巡らすこと。
それはその人の生を何かしら萎えさせるものがあるだろう。もちろん人によるけども。
そのような人が、そのような判断を外部に委託したいのは理解できるのだ。
ただ問題なのは、そのようにトレードオフ性への直面を忌避する人々が
はたして代表者としてトレードオフを主張する人を選ぶだろうか、ということなのだ。
芸能人が児童虐待の一般的可能性について言及しただけで否認する人々もいるのだ。
可能性に脅かされるから「仮定のことは話さない」という姿勢。
それは自己に退却して外部を見ないということだ。
外部を見ないで代表者を選べるものなのか。外部を見ない選出の結果が
「仮定のことは話さない」という代表者を現出させてしまうのではなかろうか。
「負荷なき社会」と公約ベースの選挙はまことに相性が悪い。
考えたくないことは誰も考えなくなるから。
けっこう問題だと思うよ、実際。