鏡の国のバカ

しったことか

モノを考えるツールとしてのツイッター

がわりかし便利で、結局サブアカでつぶやいてるってどーなのかっていう話。しかも内容が下品になってるっていう。人に見られてるかも、という適度な緊張感がいいのよね。まぁ2chでもいいんだけど、連投はウザがられるし。見られてるかもしれないけど実は見られてない、のが、ベストw ひとりモノを考える上ではね。政治性を忌避しているのはまず第一に俺自身じゃないのかという自問は前からあった。東浩紀なんて何やかや言いつつ政治やってるからねえ。ああいう主張をするのは、自身のどうしようもない政治性を嫌っているがゆえなのでは、という疑問もあったりして。
ネットのよくない点は、伝える相手を限定できないところだ。いくらなんでも無限に責任を取り続けることなどできるはずがない。蚊を退治するのに爆弾使うアホはいないわけで。不遜な話だが、そういう懐疑を払拭できないのが困ったところ。すべてのマスメディアを否定するような物言いだなこりゃ。相手にある程度の強度を想定できなければ、すべての異論は爆弾と変わらない。
強度のある「構造物」がないこの日本では、そこかしこで炸裂する爆弾によって、いわゆる「フラット化」が進行中だ。多様性は、諸外国の事情はともかく、この日本ではそれが失われつつあるからこそ、尊重されるべきものになっているようだ。多様になったのは「嗜癖」のみだろう。そんなものはディズニーランドのアトラクションの中で何が好きか、といった程度の違いでしかない。
わざわざ外に出なくとも、ディスプレーを見ればそこには穿たれた「外部」がある。常に外部を参照し、参照されている。そんな環境で多様性など求めるほうが間違っているのかもしれない。求めるのであれば、そこには何らかの「強度」が必要になってくるのだろう。