フラクタル三話感想
うーん…一話よりは二話、二話よりは三話のほうがいい。面白くなってはきている。それでもまあ、ありがちなユートピア/ディストピアものだな、といった程度のものだけど。ゆるゆるなやり取りからいきなり人死にっていうギャップがひどい。普段からあんなことしてるなら、あのレジスタンスの姉ちゃんはあんなボケボケしてねえだろ、と思ったりした。
ドッペルまわりの設定がいまいち掴みにくい。ナノマシン埋め込まれてない村人が触れるのはヘンじゃないか(メガネで触感まで制御するのは無理だろう)とか、実際には物体に触れないのに農作業を代行?とか。まぁ、個人的にはそういう細部にはあまり興味はないけれど。
電脳コイルにハマった身としては、拡張現実方面でもっと惹かれてもよさそうなものなのだけれど、ドッペルが「いる」ことがあまりに当然の前提になっていて、それはもはや「現実」でしかないように見えるのがイマイチなところ。
モノを考えるツールとしてのツイッター
がわりかし便利で、結局サブアカでつぶやいてるってどーなのかっていう話。しかも内容が下品になってるっていう。人に見られてるかも、という適度な緊張感がいいのよね。まぁ2chでもいいんだけど、連投はウザがられるし。見られてるかもしれないけど実は見られてない、のが、ベストw ひとりモノを考える上ではね。政治性を忌避しているのはまず第一に俺自身じゃないのかという自問は前からあった。東浩紀なんて何やかや言いつつ政治やってるからねえ。ああいう主張をするのは、自身のどうしようもない政治性を嫌っているがゆえなのでは、という疑問もあったりして。
ネットのよくない点は、伝える相手を限定できないところだ。いくらなんでも無限に責任を取り続けることなどできるはずがない。蚊を退治するのに爆弾使うアホはいないわけで。不遜な話だが、そういう懐疑を払拭できないのが困ったところ。すべてのマスメディアを否定するような物言いだなこりゃ。相手にある程度の強度を想定できなければ、すべての異論は爆弾と変わらない。
強度のある「構造物」がないこの日本では、そこかしこで炸裂する爆弾によって、いわゆる「フラット化」が進行中だ。多様性は、諸外国の事情はともかく、この日本ではそれが失われつつあるからこそ、尊重されるべきものになっているようだ。多様になったのは「嗜癖」のみだろう。そんなものはディズニーランドのアトラクションの中で何が好きか、といった程度の違いでしかない。
わざわざ外に出なくとも、ディスプレーを見ればそこには穿たれた「外部」がある。常に外部を参照し、参照されている。そんな環境で多様性など求めるほうが間違っているのかもしれない。求めるのであれば、そこには何らかの「強度」が必要になってくるのだろう。
フラクタル二話感想
「わけのわからない」やつと「わけのわかりすぎた」やつしかいないのか、この世界には。
同情するならカネをくれ、共感するなら・・・
虎マスク騒動で、児童養護施設のひとが「何がほしいか聞いてから送ってくれ」と言っていたのを見て思った。
贈与とかプレゼントとかいうものは、相手の都合を100%汲んだものを送らねばならんわけではないだろう。当然ながら。
できることなら、相手と自分をつなぐような何かにしたいところだ。
恋人へのプレゼントを、お中元みたいなカタログを送ってすませたとすれば、興ざめもいいところである。
もちろんそれで済ませてもいいが、相手の欲するものを想像することもできなければ、自分との関係に思いを致すことも、私にはできませんよ、というアピールを含んだ贈り物になるのは確かだろう。
まあしかし、ほぼ赤の他人(匿名)から送られるなら、現金のほうがいいだろうなあと思う。色々めんどくさいだろうし。
とは言え施設側が「寄付は現金のみにしてくれ」なんて言えば、寄付の数はガクッと減ることだろう。贈る人の自己満足も、ある程度は尊重しないとね。
すべて事務的にまわすのが理想なのだとしたら、そもそも寄付なんて非効率なのである。
我ながら能天気なことを書いているな・・悪質な寄付のせいで子供が虎ノ門病院に担ぎ込まれました、なんてニュースが流れないことを願います。
The Good, the Bad and the Ugly
英米人は日本人より本音を言わない
「善意」がマスクに隠されなければならないワケ
今日の日経ビジネスオンラインの記事ランキングの一位二位が、この二つなのだが、妙な組み合わせだ。
英米人は「よくないこと」をマスクに隠しているという記事と、日本の「いいこと」はマスクに隠されているという記事である。